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事務局長赤城智美のブログ

「のんびり行こうよ」 赤城智美 アトピッ子地球の子ネットワーク事務局長 第十回

2000.11.01
「のんびり行こうよ」は、『アトピー最前線』50号(1999年4月号)~ 68号(2000年11月号)に不定期連載された、アトピー・アレルギー性疾患をもつ子どもの子育て奮戦記です。


10回 自由なこころの方がいい

「この子のために」を用心する
 食べものとアレルギーについて意識的に努力し、気をつけていたのは、「いろんなことを子どものせいにしない」ということでした。
 「この子のためを思ってがんばってる」と感じたり、子どもに対して「がんばろうね」と話しかけたりするのは、よくあることだと思います。実際私も、心のなかでそんなことをつぶやくことが、けっこうありました。それでも、「この子のために」は「大変なのはあなたのせいよ」に近づく第一歩になってしまうことが気にかかり、それが必ず「ぼくは大変なんだ」という子どもの自己認識につながるような気がしたのです。それをストップすることが大切に思えて、「ぼくはちっとも大変じゃないよ」という子育てを選ぼう、と思うようになりました。
 でも一方では、「私ってがんばってるよね」「いつかきっと楽になるんだから、がんばれ」と、自分をほめたり応援したりする言葉は、けっこうまめにつぶやいていたように思います。だって、息子の身体に合う食べものを見つけたり、出てしまった症状につき合うのは、本当にとても大変だったんですもの。せめて自分をほめなくちゃ、誰もほめてはくれなかったのです。でも、それを子どものせいにはしない。絶対しない。
 自分の身体に合った食べものや、洗剤や衣類などを選ぶのは当たり前のことなのに、「ぼくって大変」「ぼくって特別」という思いはなんだか不自然だし、不自由です。不自由な思いを胸にしまって育つより、自由なこころのほうがいい、と素朴に思うのです。

自由はどこにでもころがっている
 そんな気負いも、パーッと吹き飛んでしまうことがありました。息子が久しぶりに、重いぜんそくの発作を起こしたときのことです。息子は苦しい息をしていて、横になって寝ることもクッションを抱えて座っていることもできません。壁によりかかって座った私の足のあいだに座り、丸めたタオルケットを脇腹や背中に置いて、微妙なバランスで身体を支えてじっとしていました。
 何時間もその状態で、私はすっかり疲れてしまって、うとうとゆらゆら眠りこけていました。ささやくような声が聞こえて、ふと目を覚ますと、私の足のあいだで息子は、ナント! 右手と左手で別々の役を演じて、一人ジャンケンをしていたのです。
 「じゃんけんほい、あー負けちゃったあ」げほげほ、ゼーゼー......。ひそひそ声やら、時には黙ったままで、いつまでも遊んでいました。後日、その時の気持ちを聞いてみたところ「だって、つまらなかったんだもん」とひとこと。自由って、いろんなところに転がっているもんなんですね。

理解のしかたもいろいろ
 保育園での暮らしは、担任の先生だけでなく園にいるさまざまな先生の眼差しによって成り立っていたと思います。うまくいったことばかりではなかったのですが、それはそれで、広い社会に船出して波にもまれる前の練習と思えば、些細なことだったのかもしれません。
 とはいうものの、人の心の奥底にはいろんなモノが潜んでいるのだと思い知らされたことがありました。「アレルゲンを間違って食べても、本当は症状なんて出ないのではないか?」あるときふと思いつき、実験してみたくなった人がいたのです。
 給食の時間のことでした。牛乳を注ぎ、ぽんと子どもの前にコップを置いたのです。子どもはなんの疑いももたずその牛乳を飲んでしまいました。昼間は特に問題もなく過ごしたのですが、夜間になってからあちこちを掻きまくり、朝起きたときには手首の甲、肘の内側、膝の裏、足首の甲に、赤く細かい発疹と引っかき傷ができていました。耳たぶは切れて血がにじんでいました。
 翌日、担任に症状が突然出たことを話すと、給食のときの顛末を話してくれました。偶然の間違いで意図したものではないとも話していました。「なるほど、そういうものなのか」、なんとも言えないシンとした静かで寂しい気持ちになったのを覚えています。そのことがあってから、先生方は以前に増して慎重に接してくださるようになったと思います。

いろんな波をこえてきたね
 代償というのでしょうか、「理解する」「理解を得る」ことの難しさは、結果として子どもの体調と引き換えになりました。その後も症状が変化して数カ月を費やしたのです。
 「『あら本当にかゆくなるんだねっ』てあとで言われたんだよ」
6
年生になった息子は、そのときのことをちゃんと覚えていました。「息苦しくなったりしなくてよかったよね」と笑っている息子の顔をながめながら、この子もいろんな波を超えてきたんだなあと、しみじみ思いました。
 保育園時代は説明と説得の日々でした。子ども自身に対しても先生に対しても、調理師やクラスのお母さんに対してもそうだったと思います。それでも子どもにとって、保育園は多くの人に見守られ、大人の庇護のもとに置かれた、暖かい陽だまりのような場所でした。小学校は、子ども自身が自分の言葉で、周りの人へ語りかけなければならない世界でした。大海ではないのかもしれませんが、確かにわが子は小学校入学とともに、自分の言葉で語る海へ漕ぎ出していったのです。

順風満帆と思ったスタート
 小学校に入学するとき、食物アレルギーの子どもをもつ親たちの関心事といえば、学校給食のこと。アトピッ子地球の子ネットワークの電話相談でも、ほとんどの小学校が給食センターで調理しているため、わが子の分だけ別に調理してもらうことを実現するのに、みなさんたいへん苦労なさっている様子が伝わってきます。
 息子が入学した小学校は、たまたま自校式の給食だったため、栄養士さんや調理師の方と話し合う機会が得られました。全校に彼を含めて3人、食物アレルギーの子がいたため、「前例はありませんが、とりあえずやってみましょう」という関係者の意欲が原動力になり、あっさり「卵抜きを基本とする、アレルギーの子用の給食3人前」が実現しました。
 栄養士さんは、一人で何校かをかけもちして栄養指導している方でしたが、息子の食事記録を毎日提出するよう求めてきました。一ヵ月もすると食生活の状況を把握なさったのでしょう、「前の日の給食について、何か問題があったときだけノートを出してください」という指導に変わり、特に大きなトラブルもなく過ぎたように記憶しています。

不調がじんわりやってきた
 年齢が上がるにつれて症状も落ちつき、突発的な出来事にもさほど反応しなくなり、子どもの成長に感謝して「そろそろアレルギーも卒業かな」と思い始めたころです。1年生の夏休みを終え、秋風の冷たさがしみてくる季節から、朝晩、軽いぜんそく発作を起こすようになりました。特に朝早く登校時に走っていったりすると、授業開始までには呼吸が落ちつききらない状態だったようです。やがて冬になり、保健室へ行って体調を整えてからでないと教室に行けない状態になったことが一度ありました。学校が終わると学童クラブに立ち寄るのですが、朝体調が悪かった日は、学童クラブでも本人がいらだっている様子がうかがえました。
 順風満帆と思っていた小学校生活は、秋風とともに、どうも思わしくない方向に向かっているなあ......、と気づいてから、子どもに学校の様子をあれこれ尋ねるようになりました。特に何か方針があるわけではなかったのですが、何か引っかかる「よからぬ感じ」がして、その正体を知りたかったのです。
 子どもはいじめにあっていました。大人が見るといじめなのですが、当人たちどうしは、からかい程度の出来事だったろうと思います。息子自身、それを「いじめ」とは認識していなかったようですが、ひじょうに困っている様子でした。

「図式」ができてしまった
 牛乳を飲まないため、息子はおかずの一部をメニューに合わせて持参、水筒を毎日持っていきました。ランドセルにそれらは入らず、手持ちすることが多かったのですが、「いじめ」はその姿が原因だったようです。
 1年生のなかでも小柄な子でしたから、荷物の多いときは高学年の子たちが持ってくれたり、本当に世話になりました。周りで見ていた子どもたちは、水筒を持ってみたかったり、自分も高学年の人に甘えてみたかったのだと思うのです。水筒を引っ張ったりお弁当を持とうとしたり、ふざけているうちにそのこと自体がおもしろくなってしまったのでしょう。それが高じてお弁当を隠されて、給食で出された白いごはんだけ食べて帰ってきた日もありました。
 ふざけが高じて先生に注意されるなどするうちに、大人や高学年の人に守ってもらえる子という認識が定着し「アレルギー男」というニックネームをつけられました。かばってくれる6年生が卒業してしまっても、状況は相変わらずでした。水筒持参は早い段階でやめ、お弁当をランドセルに入れ、はみ出した文具類を手提げ袋に入れるなど工夫しましたが、図式は定着したままです。
 2年目の秋、保健室に行く回数も増えたことを見定めて、私たちは「この図式を変えること」を決意しました。半年だけのつもりで、山里の村に母子で疎開したのです。

関係性の再構築
 親戚の家に居候しながら、全校生徒80人の村の小学校に通いました。全村で小学校三つ中学校一つ、食数にして300食余りの給食センターがあり、大豆油を使わない給食だったので、代替持参で過ごすことができました。
 子どもたちはのびやかで、ちょっと変わった転校生に対して最初の日だけ興味しんしんでしたが、翌日からは、ずっと前から友だちだったようなつき合いが始まりました。1学年1クラス、たった16人の同級生でした。
 ここは寒冷地で、雪こそ降らないものの路面は凍り、冬は水道管にヒーターをかけていないと破裂してしまうような所です。突然冬場から転校したので、人一倍厚着はしましたが、ついにぜんそく発作は一度も起こりませんでした。
 村では同じ名字の人が多いため、大人も子どももファーストネームで呼び合います。小さい村ですから話はすぐに広がり、転校の翌日には見知らぬ人から、「○○ちゃん学校には慣れたかい?」と声をかけられました。人口は過疎ですが、人と人との距離が濃密にできているのです。息子は、学校全体ののんびりした雰囲気だけでなく、村の大人たちに見守られてすっかり元気になりました。そしてそのまま卒業までいつづけて、都会には帰らなかったのです。
 わが子と出会って12年。食品添加物や農作物の残留農薬のこと、大気汚染の実状、予防接種や給食実施にまつわる問題点の発見、医師との関わりなど、さまざまなことに出会い学ぶことができました。
 悩み続け考え続けたのは、モノとの関わり、人との関わりでした。
 モノとの関わりは、知識と見識をもつことができれば乗り越えていけます。しかし、人との関わりは、戦ったり主張するだけでは本当の解決にはつながらず、人との関係性の再構築を自ら行わないかぎり解決しないのです。
 人との関係性に傷つき、そして人に支えられて暮らす場所を見つけた息子の姿は、今では私にとっての手本になりつつあります。


※『アトピー最前線』68号(200011月号)より転載
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