「のんびり行こうよ」
赤城智美 アトピッ子地球の子ネットワーク事務局長 |
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「のんびり行こうよ」は、『アトピー最前線』50号(1999年4月号)〜 68号(2000年11月号)に不定期連載された、アトピー・アレルギー性疾患をもつ子どもの子育て奮戦記です。
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第1回 「食べるものがない」だなんて
「今日はパンのある日だから、ごはんを詰めといてね。梅干しも忘れないでよ」大きな弁当用のジャーを肩にかけ、ランドセルをしょって、息子は今日も元気に登校した。
彼は、卵(鶏のもの)、大豆、豆類、小麦、米、油、天然酵母、タートラジン色素をはじめとする着色料、保存料、カレールウなどにアレルギー反応を示す、10才のいたずら盛りの少年である。
トマト、ほうれん草などの、ヒスタミンの多い野菜や、メロン、バナナなどのセロトニンを多く含む果物も、無・低農薬のものやポストハーベストの心配がないものなら食べても体調は悪化しないが、農薬の散布回数の多いものを食べると、見る間にくちびるが腫れ、腹痛をおこし、翌日は手足をかきむしることになる。
お米は最近、生産者のわかる由緒ただしいものなら、普通に食べられるようになってきた。大豆は、調味料や加工品を含めて何でも食べられるようになったが、大豆油だけは、食べると体が嫌がっている感じがする。とにかくかきむしる、鼻水が出る、不機嫌になる。
体調を考えながら食べる量を調節することで、多少食べても大丈夫というものは、竹の子、里芋、山芋、ごぼう、チョコレート、ナッツ類、などである。保育園の入園や小学校の入学の頃は、今よりもっとダメなもののリストの方が多かったのだから、現在の息子の食は、幅広く豊富だと感じているのだが、周りの人からは依然として、「食べられるものがないね」と同情されたり、おどろかれたりしてしまう。
今もし卵や乳製品を間違って食べてしまったら、息子は呼吸困難をおこしたり、高熱が数日間つづくかもしれない。場合によっては、全身にアトピー性皮膚炎が広がって、1度の失敗で1年近く、痒い毎日をおくらなければならなくなるだろう。(実は昨年それをやってしまいました)
その意味ではたしかに「制限のある食生活」は厳しいものであるけれど、だからといってわが子と暮らす10年は、決して辛く悲しい毎日ではなかったと思う。
食べることを中心に毎日が回っている時期もあり、食卓を豊かなものにしたいという気持ちでせいいっぱいな時もあったけれど、おかげで「豊か」とは何だろうかと、ずいぶん考えさせられた。
食卓だけでなく、洗濯や掃除をとおして暮らし全般を見渡さざるを得なくなった。
そんなことがあり、これは息子に伝えておきたいなと感じたことを、先に皆さんにこっそりお伝えするつもりで、しばらく連載します。おつき合いいただければさいわいです。
※『アトピー最前線』50号(1999年4月号)より転載
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第2回 こだわらないで楽になる
赤ちゃん時代のわが子を振り返ってみると、眠い時に頭や顔をかいていた姿を思い出します。おっぱいがなかなか出ず、母も子も1時間続けて眠ることができないような状態が半年も続いた頃、ほっぺが赤くなり、切れて体液が出るようになりました。同じ頃、おむつかぶれが始まり、あっという間に顔もおしりもまっ赤な赤ちゃんになってしまいました。
今でこそ、母乳の出が悪いとき、「自分の食生活をふり返ってみて、動物性タンパク質をとりすぎてはいないか、糖質や脂質をとりすぎて、ミネラルや、ビタミンが不足するような片寄った食生活をしていないか。とりあえずチェックしてみるといい」などと、若いお母さんにアドバイスしているのですが、当時はもう、睡眠不足とわが子の異変に圧倒されてしまって、食生活を振り返るどころではありませんでした。
よく考えてみると、母親の血液がそのままおっぱいになるわけですから、母親が食べた食べ物が、そのままおっぱいに反映してしまうということは、道理といえば道理なのですが、その時はひたすら、ほっぺやおむつかぶれを治してあげることばかりを考えていました。
むずかる子どもをベビーカーに乗せて、気分転換をはかろうと外に出てみると、道行く人は「まあほっぺが真っ赤じゃないの、ちゃんと洗ってあげているの」「泣いてる時はだっこしてあげなきゃ」と親切に、良かれと思って声をかけて下さいました。
お風呂にも入れている、沐浴もしている、おむつもきれいに洗濯しているし、しょっちゅう取り替えている。おっぱいの出は悪いけど、ちゃんとだっこしてあたえているし、もうこれ以上は無理という気持ちがあふれてしまって、ついに私は外にも出られなくなってしまったのです。
そんな時たまたま出会った小児科の先生が、「おっぱいにこだわりすぎないで、少しミルクを足してごらん」「布でかぶれてるのかもしれないから、紙おむつに変えてみたら」とアドバイスしてくれました。お医者さんが言うんだから、ちょっとだけならいいよね。まるで、いたずらを許された子どものような気持ちで、それまでこだわっていた「おっぱいと布おむつ」をかなぐり捨てて、試しにミルクと紙おむつに挑戦してみると、あら不思議、子どもはすやすやと眠り、あれだけ洗っても乾かしてもだめだった真っ赤なおしりが、あっという間にきれいになってしまったのです。
あの時の小児科の先生のアドバイスは、母乳の子育てを上手に支援するという意味では、医師にあるまじき言葉でしたし、「布でかぶれてしまう子ども」の本質的問題に迫ることができていない、不足だらけの内容でした。でも、あの時のわたしは、不眠と不安で冷静さを欠き、あと少しで育児ノイローゼになっていたのではないかと思います、かなり追いつめられて、身動きがとれなくなっていた時、世間一般の権威ある人の、こだわり放棄を許可してくれる発言は、とても、とてもありがたかったのです。
※『アトピー最前線』50号(1999年4月号)より転載
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第3回 まあるいお尻をながめながら
紙おむつを使っておむつかぶれから解放された、わが子のまあるいお尻を眺めながら、「布おむつを使っているあいだ、どうしてあんなにかぶれたのだろう?」としみじみ考えてみました。
出てくるオシッコそのものに何か問題があるのかな、ドビー織り、綾織りなどの織り方によって違いがあるのかな、それとも洗濯と関係があるのかなと、悩んだあげく、知りたい、知りたい、なぜなぜ病にとりつかれた私は、とりあえず「観察」を試みてみました。
観察というのは、今日はドビー織りのおむつを使った。風呂上がりに麦茶を飲んだ。うんちは何回だった。という事実のメモをひたすら続ける作業でした。2〜3日続けると、ちょっとあきてきて、「やみくもな記録はなんだか意味がないようだな」ということも感じてきました。そこで今度はもっともらしく「実験する」ことを思いつき、おむつのすすぎの回数を増やしてみることにしました。当時は二槽式の洗濯機を使っていましたから、めんどうくささも手伝ってすすぎは1回しかしていなかったのですが、それを2回するようにして、元気があるときは3回すすいだりしました。この実験は成功でした。たくさんすすいだときのほうが、「お尻の調子」がよいのです。調査に結果が伴ってくると、がぜんヤル気が出てくるもので、「あら? 単純に洗剤のすすぎ残しのせいだったの? じゃあ洗剤が変わっても結果はおなじなのかな?」という疑問符につき動かされて、今度は合成洗剤、コンパクト洗剤(当時は、現在多く出回っているコンパクト洗剤が出始めたばかりで、めずらしかったのです)、米ぬか石鹸、石鹸の使用比較を「3日連続使用・すすぎ1回」という条件でやってみました。
これは実験の条件設定で失敗してしまいました。最初に合成洗剤の使用からスタートしてしまったので、3日間ですっかり「何をやっても赤いお尻」に逆戻りしてしまったからです。
少しのあいだ反省して実験を中断している間、本をいろいろ読みあさりました。合成洗剤の環境影響や、人体への影響について書かれている本を読んで「知らないっていうことは、幸せが半分になるってことじゃないのかな」と思いました。それほど、新米ママの私は何も知らなかったのです。私は、学生時代に認識論の勉強に膨大な時間を費やしました。人が「知る」という行為は、人にとって何をもたらすかということについて、私はとても多くのことを表現できるようになっていたのに、衣食住の基本的な行為のなかで起こる、環境負荷や人体への悪影響とモノとのかかわりについては驚くほど無知だっのです。
知らないということは表現に結びつかない、行為に結びつかないという基本的なことがらに、少々呆然としながら、それでも今度はしっかりとおむつ洗いの実験を成功させました。「なるほど、石鹸ならかぶれないのね。すすぎは2度がいいみたい」「布の織りにはこだわらなくてもよさそうね」「○○社の粉ミルクを飲んだ日はお尻がかぶれるぞ!」
実験の成果に気をよくして、安全地帯になっている紙おむつのベースチェックもしてみようと、1週間ずつ6社のメーカーの紙おむつの使用比較もやってみました。2社のメーカーのものはお尻が赤くなるぞ! という発見があり、「一般的に大丈夫」と考えるのではなく、「どれがこの子の身体にあうのかな」と考えることは大事だということもわかりました。
※『アトピー最前線』51号(1999年5月号)より転載
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第4回 子どもを預けて働く
産休が明けて、いよいよ「子どもを預けて働く」という他人ごとのような想像の世界が、現実になってしまいました。
先生の自宅で2〜3人の子どもを保育するという、区が実施する「保育ママさん」制度を利用して、週3回お世話になったのですが、これは生後6カ月から1歳半までの長きにわたって続きました。この時期はちょうど離乳期にかかり、子育てでいちばん不安だったときに先生と二人三脚で過ごせた感があり、今思うとほんとうにありがたかったなあと思います。そのうえ、保育ママさんに預けたことで、副次的な宝物もできてしまいました。
それは、先生から記録を指示されたノートでした。
子どもを預けた日も預けなかった日も、1日も欠かさず子どもの食事記録をつけ、どんな様子で過ごしたかということを、相互に連絡しあいながら機嫌や体調を観察するのです。子どもに変調が見られたときには、記録ノートを見ながら「昨日から少し機嫌が悪かったからもう少し様子を見ようかな」とか「突然の変化だから少し注意して早めに病院に行こう」などと判断するのに役立てるわけです。
お母さんがずっと子どものそばにいられれば、「伝達」する必要はないのですが、1日おきに長い時間そばにいる人が変わるわけですから、これは絶対必要なノートだったのです。
ところがこれは、あとになって「食物日誌」として、アレルギーの発症や経過を見るのにとても役立つ資料となり、わが子にとっては医師のカルテと同じくらい貴重なものになったのです。
離乳食を始めると、ほっぺが切れて体液が出たり、真っ赤になったり、ゲリをする、鼻水が出る、微熱が何日も続くといった多彩な症状が出始めました。当時は、喉の奥がいつもゼロゼロ痰がひっかかったような、まるでネコみたいな息をしていました。一見「いつも風邪をひいている感じ」なのです。
あまりいつものことなので、この子は風邪をひきやすい子なのだと思い込み、症状が気にならなくなった時期がありました。
そんなとき、たまたまウイルスによる本当の風邪をひきました。吐いたり下したり大騒ぎになって、4、5日のあいだ白湯とおもゆしか食べられなくなりました。すると、日ごろの不調がウソのように引いていくのがわかりました。
わが子は本当は色白でした。鼻の下もほっぺも赤くないのがふつうだったのです。「この子の肌って本当はすべすべしてきれいなんだなあ」と思いました。そしてオムツの実験のことを思い出しました。今度はなんだろう?
先生への伝達に使っていた記録ノートを全部ひっくり返して、具合の悪かった日、機嫌の悪かった日、ほっぺがとくに痛そうだった日に付箋をつけてみました。これかなと気づいたものがいくつかありました。卵ボーロをたくさん食べた日、風の吹く日に外で遊んだとき、いり卵を食べた翌日……でも確信がもてません。
その日から、ただ単純に食べたものを記録するのではなく、「これを食べるとどうなるか」という観察をするつもりで、1品1品の食べ物を記録してみました。
その結果、おしょうゆの味付けをしたものを食べると口の周りがサーッと赤くなる。油モノを食べた翌日は皮膚の状態もお腹の調子もよくない。ということを発見しました。
伝達用の記録ノートが食物日誌に変わったころ、保育園の受け入れが決まり、やっとわかりかけた「食べ物とわが子のからだの関係」については、残念ながら少しのあいだ頓挫することになってしまいました。
※『アトピー最前線』52号(1999年6月号)より転載
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第5回 パンツのかわくひまもない
1歳10カ月になって最初に入園したのは、私立保育園でした。1週間のうち給食が3回、お弁当持参が2回。おやつは基本的に園長先生の手づくりでした。当時の私は、食べ物と症状の出方が関係ありそうだということは、多少理解していましたので、卵そのものは食べていないこと、大豆の調味料に反応しているようだということの2点だけを、入園時に保育園側に伝えました。「たくさんのお子さんを見てきて、いろいろ経験があるので大丈夫ですよ」という先生の言葉にすっかり安心して、それっきり子どもの症状や食べもののことについて話し合うことはありませんでした。
入園して半年たったころから、変調がありました。おしっこの回数がとても多くなり、15分おきにトイレに行くか、おもらしをするようになったのです。トイレットトレーニングにさしかかっていたころなので、トレーニングをいやがっているところなのかな? とか、保育園の生活がいやなのかな? などといろいろ考えてみたのですが、あまりの量のおしっこ攻撃で、先生も私も、いつもいつもズボンとパンツの着替えのストックのことばかり考えるようになり、原因などどうでもよくなってしまいました。雨が続いて、パンツにアイロンかけをして急場をしのぐときなど、「トホホ……」の悲しい気持ちより、こんなものにまでアイロンかけてあるなんて、ずいぶんなお坊ちゃまを育てているみたいだなと、ひとり楽しい気分にさえなりました。
何か変だ
そうこうするうちに、おやつを食べたあとにしなだれかかってグズグズする、お昼寝で眠ったきり4時間も目を覚まさないなど、ちょっとした変化があり、保育園の先生から「家庭では、夜ちゃんと眠っていますか」という質問を受けました。8時に寝て6時には「おなかすいた」と言って起きる子でしたから睡眠は十分です。変だねえと言い合ううちに、数カ月たち、おしっこ、グズグズに加えて手首、膝のうら、耳の下がジクジク切れて痛がるようになりました。ここにきて、ようやく私は「あれ? また何か始まった」と気づいたのです。身体のなかが何か変だという「身体の主張」は病気や名前のついた疾病で始まるのではなくて、「何か変だねぇ」という様子の変化に表れているのです。
保育園に入る前とあとで違ってしまったことは、具体的に何かあるはずなのです。そのことは、私の心のなかではチラッと気づいていたのですが、それは私が働いていて側にいてあげられないことと関わりがあるのだ、母としての私の接し方に問題があるからこんなことになっているのだ、という結論になるような気がして「何でもないよ、そのうち慣れるさ」、と根拠のない楽観で難を逃れようとしていたのです。
結論はあっさり出ました。2歳半を過ぎたというのに言葉がほとんど出ず、いつもニコニコしどおしのわが子が、牛乳を飲みたいときだけモーレツな大さわぎをするのです。コップの底に1cmだけ、それも1週間にほんの数回あげるという暮らしのなかでは、さほど牛乳を飲むことの意味は大きくなかったはずなのに、もしかして、保育園ではいっぱいあげているのかな? と思い至り、問い合わせてみると「牛乳は毎日必ずコップ一杯飲ませています」との答え。「おべんとうのときにはお茶を出しますからコップを持ってきてください」という入園時の指示を聞き、私は給食のときもおやつのときもお茶を飲んでいると思い込んでいたのです。
少しなら何も起こらない、たくさんのときは身体の許容を越えてしまうというアレルゲン感作の典型的パターンにはまっていました。
だんだんと元通り
そこで、気づいたその日から牛乳をぴったりやめてみました。もちろん乳製品のいっさいをやめ、カルシウム補給は魚やコンブ、魚の粉、シカのスープなどで取るようにしてみました。ほぼ1週間で手首と膝の裏のかゆみとジクジクはなくなり、グズグズもなんとか落ちついてお昼寝も自然に2時間で目覚めるようになりました。症状はあとから出たものほど早く引き、最初に出たものほど消えるのに時間がかかりました。食べるものが身体に合わないと頻尿になるという彼の身体の傾向は、その後も5〜6歳まで続きました。
※『アトピー最前線』53号(1999年7月号)より転載
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第6回 からだ全体の様子をとらえる
からだの異変に気がついた
からだの仕組みってほんとうに不思議ですね。一つひとつの状態が単独で起こっていたら、気づかなかったかもしれません。次から次へと波のように押し寄せてくれたおかげで「からだの異変」に気づくことができました。
でも、もし経過を振り返ることをせず、後半の状態のからだだけを誰かが見たら、どんなふうに感じたでしょうか。ぐったりしている。両方の手首を掻き壊して、赤いポツポツの上に切れて血のにじんだ筋がいくつもできている。耳が切れて透明な体液と血液が絶えず出ている。自分のからだから出ているその体液にかぶれて耳の下から顎にかけて、赤くただれたところが点々とある。膝の裏の皮膚が真っ赤になっていて、掻き壊したところからは血がにじんでいる。グズグズと機嫌が悪く、ちょっとしたことですぐ泣く。
機嫌が悪かったりぐったりしているのは、かゆくてつらいからだろう。一見するとそんなふうに見えませんか? こんなときお医者さんに診せれば、皮膚の状態にまどわされてしまいそうです。しかし、皮膚はかゆいし痛かったのですが、わが子の場合はぐったりとグズグズが先だったのです。病気の名前なんてわからないけれど、「からだの中も外もしんどそうだなあ」ということは、理解できます。
目に見える状態は「アトピー性皮膚炎」。でも、皮膚だけが問題なのではないのだ、とそのとき感じました。
連絡ノートが教えてくれた
産休が明けて子どもを預けて働き始めたとき、食事や排泄の記録を保育ママさんに手渡し、同じノートに今日一日遊んだ様子や機嫌、体調などを保育ママさんが書き込んで、夕方返してくれました。子どもとともに行き来するこの連絡ノートが、実は「子どもを観察する」きっかけを与えてくれたのです。
保育園に入園してノートは途切れていたのですが、子どもの変調をきっかけに、記録を再開しました。いろいろなことがあっても、観察するばかりでじっと動かない私の様子を見て、周りの人はさまざまな反応を示しました。
子どものことをよく知っているのは私。
父母会仲間や親戚などの近しい方々は、私のおっとりした対応を心配して病院行きをせかします。多彩な症状の一つひとつを捉えて、腎臓に欠陥があるのではないか、薬を塗らないから症状が続くのだ、だるそうだから風邪なのではないかというのです。町内会のお年寄りや医師免許をもつ友人は、子どもはお漏らしをするものだし、甘えん坊な子はお母さんにまとわりつくものだ、子どもの様子をいちいち「異変」ととらえて、ものごとを考え組み立てていくのは、神経質すぎる。もっとおおらかに子育てをしなさい、と私を諭してくれるのです。
病院へ行け、というやさしさも、神経質になるな、というやさしさも、とてもありがたく、ずいぶん心を揺さぶられました。でも、「そうじゃないんだよ」という心のなかの呟きは、日増しに揺るぎないものになっていくのです。頑固だ、神経質だ、ぼーっとしていて判断力がないなどと、いろいろなレッテルを貼られるようになると、少し悲しくなりました。それでも、「まあ、いいじゃないの、子どものことをいちばんよく知っているのは、母親の私なんだから。」という、開き直りに助けられて、観察と記録の日々は続きました。
いいかげんさとひらめきを大切に
観察と記録を継続させるコツは、書き込めなかった日があっても、完璧なメニューをつくれなくても「まあいいか」と思う「いいかげんさ」かもしれません。それから、「あれ? おかしいな」「それ、本当?」という疑問やひらめきを大切にして、まずは思ったとおりにやってみる勇気も、きっと大事な要素だと思います。とはいうものの、勝手な思い込みではなく証拠もあるのだと、私自身も納得したいと思うようになり、ついに私はノートと写真を持って、電車を乗り継ぎ2時間かけて、食物アレルギーの専門医を訪ねました。
※『アトピー最前線』54号(1999年8月号)より転載
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第7回 誰をまん中においたらいいのでしょう
理解のしかた
言葉が遅いことを気に病んでいたとき、保育園の園長先生が「言葉をため込んでいるところだから大丈夫よ。お母さんが、言葉の貯金を増やしてあげれば、きっとたくさん返ってくるよ」と声をかけてくださいました。
先生の言葉に励まされ、とにかくたくさんのおしゃべりをしました。ダダをこねて困ったときには、とりわけ懇切丁寧に話しかけたように思います。
食物アレルギーのことについては、たとえ話をしたり、子どもなりの経験を思い出させたりして、妥協せず説明しました。間違って友だちのおやつを食べてしまったときは、熱をいっしょに計ったり、湿疹の出ているところをいっしょに観察したりしました。
子どもって不思議です。3歳には3歳の、5歳には5歳の、その時々の理解のしかたがあって、「あのときはこんなふうに思っていたんだよ」と、忘れたころに数年前の納得のしかたを説明したりするのです。
あるとき、息子はめずらしく保育園のお友だちを家につれて来ました。お友だちが家に来たがったというのです。「ようこそいらっしゃいませ。ちょうどおやつの時間だからいっしょにおやつを食べようね」と声をかけると、その子は「ぼくね、かゆいの治したいんだけど、このおやつは、かゆくないお菓子?」と聞くのです。
市販のビスケットは、卵、牛乳、油、添加物とマイナス要素が出そろっていて、食べてしまったときの皮膚炎も、じくじくと治りにくいという特徴があります。保育園や近所に行くときには、息子はもっぱらお煎餅を持参していました。
彼はどうやら、「ぼくはかゆくないお菓子を持っている」と自慢していたフシがあるのです。症状についても、先生やお友だちにきっちりと説明していたらしいのです。
今日訪ねてきた保育園の友だちは、全身をかきむしったあとがあり、手のところもかゆそうにこすっていました。息子の話を聞いて、自分もぜひ治したいと、一大決心をしてわが家を訪ねてくれたようなのです。
後日、息子はその友だちのことについて、こんなことを言っていました。「ぼくは、いろんな人に、食べられなくてかわいそうねって言われたけど、本当はね、かゆくて血が出てる子のほうがかわいそうだと思ってたんだよ。ぼくもときどきかゆくなっちゃうけど、かわいそうな子なんかじゃないよ」。
責任と想像力のこと
4歳ごろになると、さまざまな食物制限のある子でも、徐々に食生活の幅が広がってくる場合が多いようです。わが子の場合も、卵や乳製品はあいかわらず除去していましたが、食べられるものの幅はずいぶん広がりました。
保育園の給食では、食べられないものがメニューに出ているときは、園の栄養士さんや調理師さんにご協力いただいて、代わりの食材を調理してもらい、無理なときは自宅から代替品を持参していました。それもだんだんと代わりのものを持って行かなくてすむようになり、大部分は調理師さんの工夫と愛情で、乗り切れるようになりました。
ところで、「調理師さんの愛情」というのは、例えばミルクシチューを作っているとき、ミルクを入れる前に別鍋に一人分を取り分けて塩味だけをつけるというような「取り分け調理」のことを言っているつもりです。
幸いわが子の場合は、「ミルクが一滴でも混じってしまったら呼吸困難」というようなアナフィラキシーは起こさない状態でした。アナフィラキシーがあると、取り分け調理は危険な場合もあり、こんなふうにはできなかったかもしれません。
でも、あえて「愛情」と表現したのには、訳があります。味つけの前に具を取り分けるという、たったひと手間のことなのですが、公共施設の職員の方にこれをやっていただくというのは、なぜかとても難しく、なかなか実現しないことだからです。現場に臨む栄養士さんや調理師さんだけでなく、そのことの結果について責任を負う立場の園長先生などが、どれだけ子どもの気持ちや置かれた状況に思いを巡らせてくださるかが、たいへん大きく影響するからです。
「責任」という立場だけでなく、園内で過ごす子どものクオリティ(=くらしの質)を大切にする人々に見守られて、彼は保育園で豊かな時間を過ごすことができました。それはほんとうに、有り難いことでした。
※『アトピー最前線』60号(2000年2月号)より転載
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第8回 失敗しながら食べられるものを見つけた
からだがびっくりした
息子が4歳のころ、保母さんがまちがえて、卵の黄身がまぶしてあるサラダを食べさせてしまいました。
たった一口食べただけなのですが、その晩、彼は40度の熱を出しました。 座薬は効果がなく、4〜5日高熱のまま過ごしました。このときの息子は、解熱剤を使ったあとのほうが調子が悪く、重湯以外の食べ物も、下してしまう状態でした。これは「からだがびっくりした状態」なのだろうと感じ、解熱剤も2回使っただけで、水分補給を十分すること、からだを冷やさないことにだけ気をつけて、あとは何もしませんでした。息子は高熱にも関わらずとにかく元気でした。
原因は卵だとはっきりしており、いざとなったら夜間救急診療窓口に行けばいいという気持ちも手伝って、様子を見ながら持ちこたえるという経験をしました。このときの、「子ども自身のからだの自然な回復力を信じる」という経験は、私にとって貴重なものとなっています。彼は1週間でぼぼ元通りの体温に戻り、ほどなくして普通食に戻しました。
保母さんと医師に経過報告
保育園の保母さんには、体調の変化について経過報告をしました。保母さんはひじょうに恐縮なさっていましたが、私は非難しませんでした。それよりも何が起こるか詳しく知ってもらい、もう一度同じ事故が起こったとき、より適切な対処をしてほしいと考えたからです。保育園の管理体制を批判しても、管理者である園長さんを刺激するだけではないか、それよりも現場で働く保母さんを勇気づけようと、そんなふうにも考えました。
以前、診察を受けたことのある食物アレルギー専門医に経過報告をしたところ、これを機会に二次製品を食べる練習を始めてはどうかということになりました。卵の場合の二次製品というと、ちくわ、かまぼこ、パン、クッキーや、揚げる手前の段階まで加工してあるコロッケなどで、卵の加水分解物を使ったものなどもあります。
小学校入学前の2年間は、発熱プラス下痢といった大失敗を2回ほど、膝やひじの裏にアトピー性皮膚炎が出たり、少しゼーゼーと息が苦しくなったりという小さな失敗を何回か繰り返しながら、さまざまな食べ物にトライしました。
その結果、卵と一緒に植物油を含むもの、油と小麦・油と乳製品など複数重なって含まれるものは食べられないけれど、その他の二次製品はだいたい食べられるようになりました。パンとクッキーは最後までダメなものとして残りました。
何がやばいか知っておこう
失敗を繰り返すということは、仕事を休んだり通院したりすることになり、親子ともどもやりくりするのが大変でした。でも、よかったこともあります。それは、「これを食べてみてかゆくなったら次はやめようね」とか、「今日トライしてみる? それとも明日にする?」というように、親子でいろいろ話し合えたことです。
子どもは「うん」とか「あした」とか、その程度のことしか答えてはくれないのですが、あれこれ話し合ううちに、「これを食べるとすごくかゆくなるぞ」とか、「息が苦しくなっていやだった」ということを、きちんと自覚するようになったのです。「これは食べちゃダメ」と私が言う前に、「別なものを出して」と主張するようになったのは、大いなる副産物でした。
親子で取り組むトライ&エラーは、「早く卵を食べられるようになりたい」という意欲ではなく、「何がオーケーで、何がやばいか知っておこう」という共通のテーマに支えられていました。
*掲載当時の資格名である、保母をそのまま使用しました。
※『アトピー最前線』62号(2000年4月号)より転載
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第9回 元気になったらお散歩にいこうね
少年も、5歳ともなると意地やプライドがあって、集団の中では頑張りたいときもあります。遠足のときは、その晩、息が苦しくなってもいいから一世一代のおやつを持参したい。毎月のお誕生会に出てくるケーキは、痒くなるので食べたくないけど、代わりに缶詰のモモを食べさせてくれるなら、とってもうれしい1日になるな……という具合に、リスクを覚悟するタイミングや代わりのものへの満足を、子ども自身で選べるようになりました。
母親としての私の役割は、子どもがリスクを覚悟して何かをしたいとき、どうしたら症状を最小限に抑えることができるか考え、対処することでした。日ごろは避けている予防薬を処方してもらったり、勤め先に欠勤届を出して、夜間の吸入治療に備えたりすることもありました。ときには「風邪を引いて辛いときに、そんな無謀なことをしてはいけない、3日後ぐらいならいいよ」というように、タイミングの修正をしたり「今日はここまで」という緊急停止係を担ったりしました。
子どもは、調子に乗って立て続けにリスクの高いものを食べてしまうと、症状が長引いたり、痒くなったりただれたり、ということも経験して、歳を経るごとに症状のコントロールがうまくなったように思います。
失敗したとき、「ほら言ったとおりでしょ」とか「あなたのせいよ」と言わないこと、これがとても大事なことでした。「やっぱり思ったとおりだったね」「このやり方は失敗だったね」というように、一緒に失敗したり、一緒に感心したり、喜んだりすること。それが結果的には母としての私自身の支えになり、子どもの成長につながったようです。
今でこそ「これが大事」などとわかったようなことを言っていますが、私もとても不安で、やったことの結果がどんなふうに出るか、いつもビクビクしていました。たった5歳の子どもに「一緒に」考えてもらったり、悩んだりさせたのは、少々酷なことだったのかもしれません。
でも、深い信頼関係なんて、一緒に困難を乗り越えるようなことでもないとなかなか生まれてこない気もするし、結局は私がどんなに望んでも「君の痛みを誰かが代わって引き受けることはできない」のだから、一緒にやるしかないじゃない。それが、私の開き直りでした。
痒みや息苦しさをふうふう言って乗り越えている我が子の姿は、今も目に焼きついています。それでも「早く治るといいね」とか「辛いね」と話しかければ、子どもの頭の中に、治したい思いや、病気で辛いという思いが印象づけられてしまう。「どうしたら治るだろうね」なんて言葉は、不安の種を蒔くだけだと、あれこれ考えました。なんて言って声をかけようかしら。
子どもが子どもらしくいるためには、遊んだり、じゃれたり、ふざけたり、「あそこまで頑張ろう」と必ず達成できる身近な目標をもったり、どうしてかな、なぜかなと、頭の中に「?」をたくさんもっていることが必要です。
症状が出ている最中は、元気になったら三輪車でお散歩に行こう、ブロックで飛行機を作って遊ぼう、と具体的で楽しいイメージをささやきかけました。角の八百屋さんにある果物は、りんごとみかんとあと何があると思う? 痒いのが落ちついて外に出られるようになったら見にいこうね、などと、変な「?」をプレゼントしたこともありました。子どもの頭の中にはずっと「?」が息づいていて、私がすっかり忘れたころに「果物はねえ、ぶどうもあるよ」と突然言われて、どぎまぎしたこともありました。
振り返ってみると、息子と過ごした闘病の時間は、身体が辛いときでも心の中までしょんぼりしてしまわないように、心の中の自由と「?」をたくさん育てる努力をすればよいのだ、と教えられる時間でもあったように思います。
※『アトピー最前線』63号(2000年5月号)より転載
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第10回 自由なこころの方がいい
「この子のために」を用心する
食べものとアレルギーについて意識的に努力し、気をつけていたのは、「いろんなことを子どものせいにしない」ということでした。
「この子のためを思ってがんばってる」と感じたり、子どもに対して「がんばろうね」と話しかけたりするのは、よくあることだと思います。実際私も、心のなかでそんなことをつぶやくことが、けっこうありました。それでも、「この子のために」は「大変なのはあなたのせいよ」に近づく第一歩になってしまうことが気にかかり、それが必ず「ぼくは大変なんだ」という子どもの自己認識につながるような気がしたのです。それをストップすることが大切に思えて、「ぼくはちっとも大変じゃないよ」という子育てを選ぼう、と思うようになりました。
でも一方では、「私ってがんばってるよね」「いつかきっと楽になるんだから、がんばれ」と、自分をほめたり応援したりする言葉は、けっこうまめにつぶやいていたように思います。だって、息子の身体に合う食べものを見つけたり、出てしまった症状につき合うのは、本当にとても大変だったんですもの。せめて自分をほめなくちゃ、誰もほめてはくれなかったのです。でも、それを子どものせいにはしない。絶対しない。
自分の身体に合った食べものや、洗剤や衣類などを選ぶのは当たり前のことなのに、「ぼくって大変」「ぼくって特別」という思いはなんだか不自然だし、不自由です。不自由な思いを胸にしまって育つより、自由なこころのほうがいい、と素朴に思うのです。
自由はどこにでもころがっている
そんな気負いも、パーッと吹き飛んでしまうことがありました。息子が久しぶりに、重いぜんそくの発作を起こしたときのことです。息子は苦しい息をしていて、横になって寝ることもクッションを抱えて座っていることもできません。壁によりかかって座った私の足のあいだに座り、丸めたタオルケットを脇腹や背中に置いて、微妙なバランスで身体を支えてじっとしていました。
何時間もその状態で、私はすっかり疲れてしまって、うとうとゆらゆら眠りこけていました。ささやくような声が聞こえて、ふと目を覚ますと、私の足のあいだで息子は、ナント! 右手と左手で別々の役を演じて、一人ジャンケンをしていたのです。
「じゃんけんほい、あー負けちゃったあ」げほげほ、ゼーゼー……。ひそひそ声やら、時には黙ったままで、いつまでも遊んでいました。後日、その時の気持ちを聞いてみたところ「だって、つまらなかったんだもん」とひとこと。自由って、いろんなところに転がっているもんなんですね。
理解のしかたもいろいろ
保育園での暮らしは、担任の先生だけでなく園にいるさまざまな先生の眼差しによって成り立っていたと思います。うまくいったことばかりではなかったのですが、それはそれで、広い社会に船出して波にもまれる前の練習と思えば、些細なことだったのかもしれません。
とはいうものの、人の心の奥底にはいろんなモノが潜んでいるのだと思い知らされたことがありました。「アレルゲンを間違って食べても、本当は症状なんて出ないのではないか?」あるときふと思いつき、実験してみたくなった人がいたのです。
給食の時間のことでした。牛乳を注ぎ、ぽんと子どもの前にコップを置いたのです。子どもはなんの疑いももたずその牛乳を飲んでしまいました。昼間は特に問題もなく過ごしたのですが、夜間になってからあちこちを掻きまくり、朝起きたときには手首の甲、肘の内側、膝の裏、足首の甲に、赤く細かい発疹と引っかき傷ができていました。耳たぶは切れて血がにじんでいました。
翌日、担任に症状が突然出たことを話すと、給食のときの顛末を話してくれました。偶然の間違いで意図したものではないとも話していました。「なるほど、そういうものなのか」、なんとも言えないシンとした静かで寂しい気持ちになったのを覚えています。そのことがあってから、先生方は以前に増して慎重に接してくださるようになったと思います。
いろんな波をこえてきたね
代償というのでしょうか、「理解する」「理解を得る」ことの難しさは、結果として子どもの体調と引き換えになりました。その後も症状が変化して数カ月を費やしたのです。
「『あら本当にかゆくなるんだねっ』てあとで言われたんだよ」
6年生になった息子は、そのときのことをちゃんと覚えていました。「息苦しくなったりしなくてよかったよね」と笑っている息子の顔をながめながら、この子もいろんな波を超えてきたんだなあと、しみじみ思いました。
保育園時代は説明と説得の日々でした。子ども自身に対しても先生に対しても、調理師やクラスのお母さんに対してもそうだったと思います。それでも子どもにとって、保育園は多くの人に見守られ、大人の庇護のもとに置かれた、暖かい陽だまりのような場所でした。小学校は、子ども自身が自分の言葉で、周りの人へ語りかけなければならない世界でした。大海ではないのかもしれませんが、確かにわが子は小学校入学とともに、自分の言葉で語る海へ漕ぎ出していったのです。
順風満帆と思ったスタート
小学校に入学するとき、食物アレルギーの子どもをもつ親たちの関心事といえば、学校給食のこと。アトピッ子地球の子ネットワークの電話相談でも、ほとんどの小学校が給食センターで調理しているため、わが子の分だけ別に調理してもらうことを実現するのに、みなさんたいへん苦労なさっている様子が伝わってきます。
息子が入学した小学校は、たまたま自校式の給食だったため、栄養士さんや調理師の方と話し合う機会が得られました。全校に彼を含めて3人、食物アレルギーの子がいたため、「前例はありませんが、とりあえずやってみましょう」という関係者の意欲が原動力になり、あっさり「卵抜きを基本とする、アレルギーの子用の給食3人前」が実現しました。
栄養士さんは、一人で何校かをかけもちして栄養指導している方でしたが、息子の食事記録を毎日提出するよう求めてきました。一ヵ月もすると食生活の状況を把握なさったのでしょう、「前の日の給食について、何か問題があったときだけノートを出してください」という指導に変わり、特に大きなトラブルもなく過ぎたように記憶しています。
不調がじんわりやってきた
年齢が上がるにつれて症状も落ちつき、突発的な出来事にもさほど反応しなくなり、子どもの成長に感謝して「そろそろアレルギーも卒業かな」と思い始めたころです。1年生の夏休みを終え、秋風の冷たさがしみてくる季節から、朝晩、軽いぜんそく発作を起こすようになりました。特に朝早く登校時に走っていったりすると、授業開始までには呼吸が落ちつききらない状態だったようです。やがて冬になり、保健室へ行って体調を整えてからでないと教室に行けない状態になったことが一度ありました。学校が終わると学童クラブに立ち寄るのですが、朝体調が悪かった日は、学童クラブでも本人がいらだっている様子がうかがえました。
順風満帆と思っていた小学校生活は、秋風とともに、どうも思わしくない方向に向かっているなあ……、と気づいてから、子どもに学校の様子をあれこれ尋ねるようになりました。特に何か方針があるわけではなかったのですが、何か引っかかる「よからぬ感じ」がして、その正体を知りたかったのです。
子どもはいじめにあっていました。大人が見るといじめなのですが、当人たちどうしは、からかい程度の出来事だったろうと思います。息子自身、それを「いじめ」とは認識していなかったようですが、ひじょうに困っている様子でした。
「図式」ができてしまった
牛乳を飲まないため、息子はおかずの一部をメニューに合わせて持参、水筒を毎日持っていきました。ランドセルにそれらは入らず、手持ちすることが多かったのですが、「いじめ」はその姿が原因だったようです。
1年生のなかでも小柄な子でしたから、荷物の多いときは高学年の子たちが持ってくれたり、本当に世話になりました。周りで見ていた子どもたちは、水筒を持ってみたかったり、自分も高学年の人に甘えてみたかったのだと思うのです。水筒を引っ張ったりお弁当を持とうとしたり、ふざけているうちにそのこと自体がおもしろくなってしまったのでしょう。それが高じてお弁当を隠されて、給食で出された白いごはんだけ食べて帰ってきた日もありました。
ふざけが高じて先生に注意されるなどするうちに、大人や高学年の人に守ってもらえる子という認識が定着し「アレルギー男」というニックネームをつけられました。かばってくれる6年生が卒業してしまっても、状況は相変わらずでした。水筒持参は早い段階でやめ、お弁当をランドセルに入れ、はみ出した文具類を手提げ袋に入れるなど工夫しましたが、図式は定着したままです。
2年目の秋、保健室に行く回数も増えたことを見定めて、私たちは「この図式を変えること」を決意しました。半年だけのつもりで、山里の村に母子で疎開したのです。
関係性の再構築
親戚の家に居候しながら、全校生徒80人の村の小学校に通いました。全村で小学校三つ中学校一つ、食数にして300食余りの給食センターがあり、大豆油を使わない給食だったので、代替持参で過ごすことができました。
子どもたちはのびやかで、ちょっと変わった転校生に対して最初の日だけ興味しんしんでしたが、翌日からは、ずっと前から友だちだったようなつき合いが始まりました。1学年1クラス、たった16人の同級生でした。
ここは寒冷地で、雪こそ降らないものの路面は凍り、冬は水道管にヒーターをかけていないと破裂してしまうような所です。突然冬場から転校したので、人一倍厚着はしましたが、ついにぜんそく発作は一度も起こりませんでした。
村では同じ名字の人が多いため、大人も子どももファーストネームで呼び合います。小さい村ですから話はすぐに広がり、転校の翌日には見知らぬ人から、「○○ちゃん学校には慣れたかい?」と声をかけられました。人口は過疎ですが、人と人との距離が濃密にできているのです。息子は、学校全体ののんびりした雰囲気だけでなく、村の大人たちに見守られてすっかり元気になりました。そしてそのまま卒業までいつづけて、都会には帰らなかったのです。
わが子と出会って12年。食品添加物や農作物の残留農薬のこと、大気汚染の実状、予防接種や給食実施にまつわる問題点の発見、医師との関わりなど、さまざまなことに出会い学ぶことができました。
悩み続け考え続けたのは、モノとの関わり、人との関わりでした。
モノとの関わりは、知識と見識をもつことができれば乗り越えていけます。しかし、人との関わりは、戦ったり主張するだけでは本当の解決にはつながらず、人との関係性の再構築を自ら行わないかぎり解決しないのです。
人との関係性に傷つき、そして人に支えられて暮らす場所を見つけた息子の姿は、今では私にとっての手本になりつつあります。
※『アトピー最前線』68号(2000年11月号)より転載
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